東京高等裁判所 昭和45年(う)869号 判決
被告人 小泉幸雄
〔抄 録〕
検察官の控訴趣意第一点(事実誤認、法令適用の誤り)の論旨は、要するに、被害者の侵害行為に過剰防衛の要件である急迫性が認められないばかりでなく、被告人の行為に防衛の意思があつたことも、被告人の行為が防衛のために己むことをえざるに出でたものであることも認められないのに、原判決が被告人の本件行為を過剰防衛行為であると認定したのは、事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤つたものであり、この違法は情状にも影響するところが大であるから、判決に影響を及ぼすことが明らかであるというものである。
そこで所論に基づき原審に現われたあらゆる証拠を検討し、かつ当審における事実取調の結果をも勘案して考察すると、被告人は昭和四四年九月二〇日午後七時三〇分頃原判示旅館内の一室においてテレビを見ていた際、被害者から、「一人でテレビを見ていてなんだ。」と文句をいわれたうえ、同室出入口の鍵をかけられてしまつたことがあつたので、その後同人と同旅館内で出会い、同人から「扇風機を知らないか。」ととがめられた際、ついそのことが口に出てしまい、「鍵までしめておきながら、扇風機をもつてこいということはないじやないか。」とやりかえしたことから、同人に「お前居直る気か、やる気か。」とからまれ、あとを追うようにして、「手前出てゆけ、手前なんかぶつ殺してしまう。」などとどなられ、その言動からして旅館内にいることが危険であると感ぜられたばかりでなく、そのとき「俺が気にいらないなら、出てゆく。」といつてしまつた手前もあつて、いつそ旅館を出てゆき、もはや旅館には戻つてこない考えとなり、こつそり同旅館をぬけ出し、同日午後八時頃から午後一〇時頃までの間に、近くの居酒屋、ついで焼そば屋において、その頃としては珍しい程の量である酒約四合程を飲んで、酩酊し、当面の落ち着き先などをあれこれと思い迷つていたが、そのうち旅館の主人が中風で寝たきりのままでおり、その主人に挨拶もしないで出てきてしまつたことを思い出し、旅館に戻つて世話になつた礼を述べるとともに、その機会に被害者にあやまり、仲直りができれば、元通りに泊めてもらおうという考えを起し、酒の勢いにのつて、同旅館に赴き、玄関から廊下に上つたところ、帳場(四畳半の部屋、茶の間ともいう。)に被害者がねそべつているのが見えたので、その帳場のすぐ奥につづく広間(八畳の部屋、布団部屋ともいう。)に入り、同広間と帳場とを仕切る開き戸のあたりに立つと、被害者がいち早くこれに気づいて、「小泉、われはまたきたのか。」などとからみ、果ては立ち上りざま手拳で二回位被告人の顔面を殴打したので、被告人は逆上し、同広間に後退したうえ、同広間西側障子鴨居の上にかくしておいたくり小刀一本(当庁昭和四五年押第二二〇号の一)を取り出し、向つてくる被害者の左胸部を突き刺してしまつたという経過にあつて、ふだんおとなしい被告人、ことに被害者には昭和四四年八月頃すなわち本件の約一箇月前頃パチンコ店において、黙つてパチンコをやりにきたことを理由に足げりにされたことがあり、またふだん同人の胸や腕に入れ墨があることを見ていて、同人を恐ろしく思い、何事も同人のいうままに行動して、反抗したことのなかつた被告人が、その恐ろしく思つている被害者に立ち向つていることから考えると、被告人は被害者から殴打されたことが余程腹にすえかねたものと思われ、その憤激の情が酒の酔いのため一時に高められ、相手がいつもこわがつている被害者であることなどは意に介しないで、つぎの行動に移つたものと考えられるので、被告人が被害者から殴打されて逆上したときに、反撃の意図が形成され、被害者に報復を加える意思が固まつたものと思われ、おそくとも前記広間西側障子鳴居の上からくり小刀を取り出そうとした頃には、防衛の意思などは全くなくなつていたことが認められるばかりでなく、被告人が旅館を出ていつた前記経緯からすると、若し被告人が再び旅館に戻つてくるようなことがあると、必ずや被害者との間にひと悶着があり、場合によつては被害者から手荒な仕打ちをうけることがあるかもしれない位のことは、十分に予測されたことであり、被告人としてもそのことを覚悟したうえで、酒の勢いにのり、旅館に戻つたものと考えられるので、たとえ被害者から立上りざま手拳で殴打されるということがあり、その後被害者が被告人に向つてゆく体勢をとることがあつたとしても、そのことは被告人の全く予期しないことではなかつたのであり、その他証拠によつて認められるその殴打がなされる直前に、扇風機のことなどで、旅館の若主人と被害者との間にはげしい言葉のやりとりがかわされていて、その殴打が全く意表をついてなされたというものではなかつたこと、被告人本人がその気になりさえすれば、前記広間の四周にある障子を押し倒してでも脱出することができる状況にあつたこと、近くの帳場には泊り客が一人おり、またその近くに旅館の若主人もいて、救いを求めることもできたことや、被害者のなした前記殴打の態様、回数などの点をも総合、勘案すると、被害者による法益の侵害が切迫しており、急迫性があつたものとは、とうてい認められないのであり、またそのような状況ないし経過のもとにおいて、くり小刀をもち出し、被害者を突き刺した被告人の本件行為が、防衛上已むことをえざるに出でた行為であつたとは、とうてい考えらなれないのである。以上の次第であつて、本件においては、被害者による不正の侵害に急迫性があることも、被告人に防衛の意思があつたことも、また被告人の行為が防衛上已むことをえざるものであつたことも認められないのであるから、原判決が被告人の本件行為について過剰防衛が成立すると認定し、判断したのは、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認をおかしたものであり、既にこの点において原判決は破棄を免れないといわねばならない。論旨は、理由がある。
(荒川 谷口 中久喜)